ラバウルは記念碑か、笑顔あふれる町


とうとう最後の寄港地になってしまった。明け方は雨が降り天候が気になるが、カルデラ湾の北岸のラバウル港に近づくと右舷側に黒姫山のような火山が二つ、さらに奥、頂が吹き飛んだ山が目に入る。良く見ると山頂左斜面に白いものがある。雪ではない。双眼鏡で見ると山崩れでえぐられ白い土が出ているようだ。噴気もあるようだ。

ラバウルはパプアニューギニア北東部、ニューブリテン島北東端の町。第1次世界大戦まではドイツ領、その後オーストラリア委任統治、第2次世界大戦中は日本海軍飛行隊の基地が置かれ米軍爆撃で廃墟、1937年火山と大戦で破壊され、戦後復興したが1994年9月南部の火山噴火で火砕流が湾に流れ込み5mの津波が降灰と泥流で壊滅的被害を受けたが、噴火前に全市民避難、現在はかなり復興している。人口2万弱、コプラ、カカオなど輸出。

埠頭から船ははみ出している。強風が吹き抜け、曇りから晴れ間が見えて、今回のクルーズ全て雨なし、素晴らしい旅となった。外気30℃を越える暑さだが風のお陰で苦痛ではない。カードは流通していないと言うので30米ドルを現地通貨キナ(K)75Kに両替。

10時過ぎに上陸、海外協力隊の若者が町の様子を教えてくれる。早速、港の前通りに出ると、道路両側にシートを敷き品物を置き、壁には生地や着物をつるした何軒もの土産物出店がある。お土産を買うのは難しい。素朴な民芸品や手芸品を、あげて喜んでもらえるか選ぶのに苦労する。

店番は殆ど女性と子供たち、男どもは赤い歯をして日陰でたむろ。子供たちがハローハローと声をかけてくれ返事をすると恥ずかしそうに眼を反らす。大人もハローと声を掛けてくれ、どこから来たのと英語で話しかけてくれる。何点かのアクセサリーを買う。勿論商売熱心な男もいるがしつっこくない。

赤い歯の正体は、嗜好品でキンマ噛みとか。ビンロウ(ヤシ科の高木)の実と石灰をキンマ(コショウ科のつる性低木)の葉で包み噛むと口の中が真っ赤になり、そう快感を伴うと辞典は言う。

ほんの300m位先に大きな公園の広場に開放的な市場のある。広い敷地に諸々の野菜、葉物では育ちが良いのか大変に大きい物がある。果物各種、バナナは小さいものから巨大なものまで。タバコの葉、赤い歯の素、かごや民芸品、アクセサリーなどなど品数は数えきれない。

ピーナツは茎ごと束ねて20粒で生でも食べるらしい。制服姿の中学位の子供たちが、バス待ちながら、おやつ代わりにつまんでいた。

タバコは、葉を乾燥そのまま丸め、新聞紙を巻いて筒状にし葉をつっこみ紙巻きタバコにしているようだ。30cm位の長さがあるので切るのかもしれない。

赤い歯の素らしきものは、握りこぶしより少し小さい青緑の実と細長いインゲン豆の様な物と合わせて売っている。傍にビニール袋に小分けした白い粉もある。口がどうなることかと心配だったので、この味わい方は質問しなかった。

昼食を現地の物と考えたが、食堂は見当たらず、買い物の荷物があったので船に戻り船内食にした。日差しが強く現地の人も犬も日陰に集まっていた。


午後からはヤマモトバンカー(海軍司令部跡)と平和記念碑に行く。町の中心に中央分離帯にまばらに木がある2車線の立派な道路がある。火山灰で埋まったのか所々穴ぼこがあるが舗装道路だ。砂埃が舞う。木陰を求めながら左に行ったり右に行ったり真ん中を歩いたり、車が少ないので自由にコースが選べる。大型バスは無いようでハイエースなどワゴン車がバスになっている。わき道は整備が進まず灰に埋もれて雨の日は泥だらけになるだろう。大通りはゴミが少なく、ヤシで作った大きなかごに分別してゴミが集められ、整備されている様子が伺える。通りがかりの人も遠くの人もハローと声をかけてくる。

途中、教会があり、中を覗いて見た。十字の風貫が壁に2mほど置きに作られ風が吹き抜け涼しい。隣の小学校から子供たちの歌声が聞こえてきた。

道路の火山灰を掘り起こし路肩に寄せ、山になった法面の草を刈っている人がいた。刀のような長い板状の刃物と木の棒で草を抑えながら刈っていた。スーパーにあった不思議な板状刃物の使い方が解った。

2kmほど歩いたか、ヤマモトバンカーと言われるコンクリート壕に到着、中に入ると初めて蒸し暑さに汗が目に沁み、こんな狭い壕の中で作戦を練り、指揮していたと思うと、戦争は起こしてはいけないと、しみじみと感じた。たまたま今日は日本人が大勢来るとの情報を得て、現地でパソコンを教えている若い日本人講師がボランティアで案内をしてくれ、真っ暗な壕の一室で、直径3m位の狭い円形スペースで山本五十六が作戦会議に出たとの話を聞いた。入場料1人5キナ135円相当。

壕の前の庭には日本軍の武器の残骸が置かれ、建物には当時の資料が展示されていた。参観名簿に平和を守ると署名。入場料1人5キナ。

ここから少し山を登ったところに、2Km位に、1980年に作られた平和記念碑があると言うので、頑張ることにした。ひっきりなしにピースボートのツアー客を乗せた、バンやRV車やトラックが砂塵を撒き散らしながら通り過ぎ、手を振り挨拶をする。きっと皆はこのくそ暑い中を歩くなんて馬鹿じゃなかろうかと思っているに違いない。

道路わきに出店が有り、ヤシの実を売っている。キナが残っていれば帰りに買おうと、手持ちのペットボトルに入った船の飲料水を飲む。32℃54%意外と暑くない。

道路わきの森にはバナナがたわわになって、水木しげるのラバウル手記に描かれた絵のようにヤシの木が茂り、食料には苦労しない様だ。道路は砂利と土だが整備されている。道路わきに壕のような洞窟がぽっかり穴を開けており、戦中日本軍はトンネルを張り巡らせたとの話で、その一つかもしれないと思った。

平和記念碑に到着、番人がいて1人5キナを払い入場。すでにPBの人達の慰霊セレモニーが終わって祭壇には花が」手向けられて、強風で花が散らばっていたので改めて元に戻し、手を合わせる。立派な建物でラバウル市街を見下ろしており、港には我が船の赤い煙突がヤシの木を通して良く見えた。帰り道、PBの乗客一人が登ってきた。物好き仲間か。

人家がないのに鈴なりに学生が乗ったトラックが停まり、何人かが降りる。いったいどこから来たのだろうか。山から下ってきたが、学校があるのだろうか分からない。メインストリートの奥に人家があるのだろう。

まだお金が残っているので、行きに見たココヤシ屋さんがまだいるかと見たら、テーブルに2個ヤシが残っていた。包丁で飲み口を開けてくれ、1キナ27円。冷えてはいないが、たっぷりの液体が喉を潤すが、上手く飲めず、口の周りからほのかに甘いジュースがこぼれる。切り口の白い皮がココナツ、味はないがコリコリして食べられる。店の女性が日本人か、戦争のことをどう思うかなど厳しい質問を受け、タジタジ、でも和やか。

本通りから海岸沿いのわき道に進もうとしたら、通りがかった男性が道が違うと本通りを指し通り過ぎる。それでも曲がろうとしたら、さっきの女性が出てきて、何が起こるかわからないので、本通りを行きなさいと諭してくれた。やはり人気のない所は何が起こるか分からないので諦める。

港に近づき表通りから一本中の道に入ると、道路が水没、車は路肩を慎重に渡り、多分わき道はまだ整備されていなく火山灰に埋もれ獣道のようになっているのだろう。表道を外れなくて良かった。

港に近づき土産物通りに出た。最後の土産物を買いラバウルに別れを告げた。何キロ歩いたのだろうか、程よい疲れと満足感に夕食のビールが美味かった。

これにて、、、、寄港地便りの、、、、幕引き。つたない文章にお付き合いくださり、あああ有難うございました。(コジ記)