南周り世界一周の航海が終わりを迎えた。

3ヶ月に及ぶ航海は残す所4日となってしまった。今日4月5日は船内での活動の発表会。Nは手品に玉すだれの演技を披露、Kは船内活動は避けてきたが、たまたま出逢った人とマンドリンとのアンサンブルを披露、揺れるステージに音を外しながら合奏、ピースボートしてしまった。色々な自主活動の発表がなされ夜遅くまで賑わっていた。

日本に近くなって海は風が強く、デッキに出るドアは風圧で異常に重く全身に力を入れて押さなければ開かない。デッキには霧のように波しぶきがあたり、気温は32℃もあるのに寒ささえ感じる。白波が立ち、ほんの少しだが体重が軽くなったり重くなったりして揺れ、激しくはないが船上にいることを思い立たせる。時折スコールが通り過ぎ、空気はべとつくが蒸し暑さは感じない。日の出、日の入りはここ2,3日はすっきりしない。赤く染まらない。雲が多く湿度が高いせいか。海の生き物は稀に飛び魚が飛ぶ程度で、一度イルカの団体を見た人が居たが、これまたすっきりしない様子。海の色は濃い青だが、青空が少ないせいか吸い込まれるような透明さはない。

夜空は雲間に星が見え、日没後一際金星が輝き、その下に水星も輝き、水星が見られるとは思いもよらなかった。船はただただ北西に進路を取り、毎日同じ方向に、船の煙突の黒煙がちょうど南十字に煙幕を張り邪魔するが、まだ見えている。もう2日もすれば水平線に沈んでしまうだろう。それに引き換え北斗七星が頭上高くに輝き、ここは北半球だと高らかに言い聞かせる。カノープスも次第に水平線に近付いている。夢のようだった南半球の夜空から別れを告げなければならない。自分にとって生まれて初めての夜空だっただけに印象深いものだった。

フィジーから、かの派遣村で有名になった湯浅氏が乗船、ちょっとキザで軽い感じがするが、それはさて置いて、数回反貧困についての講演があり盛況で、貧困層が日本にも在るということを世間に知らしめ政府に認識させたことや、何をしなければならないかの話を聞き、少なくとも乗船できるような人々は無縁とも思われるが、熱心に耳を傾けていた。

今までは企業が年齢に応じて手当て支給して将来設計が出来るようになっていたが、派遣社員の様に、現在は年齢に関係なく給料が支払われるようになった為、年齢に応じた収入が得られなくなったために、少子化や学歴格差が生まれ、弱者が負の連鎖に巻き込まれ貧困層が増加しているのだという。賃金に関係なく人として必要な費用は、例えば教育費や住宅費や医療費など、富の分配システムのあり方を考えなければならないと言う。なるほど。

彼は偶然に反貧困に戦う世界に入ったと素直に言っていたのに安心した。頭脳明晰な人なのでどのような方向にも進める、学者にも政治家にも役人にも、が反貧困のテーマで戦ってくれることは立派だと思う。彼は活動家として少しでも世の中が良くなるように頑張ると言う。PBに乗船した皆様も小さな事でも愚痴で終わらせないで世間に声を発して欲しい。この世にした責任は市民にあるのだから、リタイア組も今までと少しは変わって欲しいと小言を頂戴した。

横浜の次回出港が遅れたらしい。またドッグ入りとの噂が立つが、無事横浜に着岸してくれれば、先ずはそれで良し。船では至る所修理や掃除やペンキ塗りで乗客はうろうろ追い出されている状況。船内の水漏れの話を良く聞く。45年も経てば鉄管は錆でケロイド状に盛り上がりボロボロ、船体はどうなっているのか、知らぬが仏なのかも知れない。今頃になって切れたランプを全て交換し、見た目は美しくなった。

4月6日、フォーマルディナーでレストランの給仕係、厨房係、客室係などのスタッフが手拍子で迎えられ、乗客に挨拶、We are the warldを合唱、お互いに感謝し合い、いよいよこの3ヶ月のクルーズの幕が閉じる感が強まり少し寂しくなった。船全体の雰囲気は和やかなうきうきした感じに包まれている。

今日で南十字星とはお別れ。天頂はすっきり晴れているが周りの空は薄もやがかかり視界が悪い。さらにオセアニック号の煙が丁度南に流れ見難い。かろうじて南十字星の左上ガクルックスと左横ベクルックスが確認でき、十字架の形ではないが、最後の南十字星を目に焼き付けた。(K記)

4月6日最後の時差修正で日本時間と同時刻になった。下船までに二日となり皆ねじり鉢巻でパッキングに忙しい。飛脚宅配便に頼むのだが これは下船地神奈川県でも北海道でも同料金で一個2,630円だ。我が家下船時は一個増えて4個、故に今回は合計10,520円也。近場の人々は電車賃も入れればタクシーで帰った方が良いかも・・・と算段している。

船内は400人程の超狭い一つの社会、船室を一歩出ればそこは同じ地区の公共の場、登山の時と同様に行き交う人々に「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」と言い合う。最初私でも疲れるなと感じた。若者も挨拶に大分戸惑っていたが 半ばからあちらからも声がかかるようになってきた。」若者は成長する。とうとう最後まで反応しない老人も一割程度居た。

今日「68回ピースボート地球一周の修了証明書」を貰った。14カ国17の港を訪れ 通ったのは東シナ海、マラッカ海峡、インド洋、大西洋、ビーグル海峡、ドレーク海峡、南極海、マゼラン海峡 そして太平洋。合計31,669航海距離と記されていた。(N記)

4月8日、ギターを弾いたり歌ったり酒を飲み、あれやこれやと人生相談まで受け、ピースボートについて初めての人とも話を交わした。ベッドには午前4時に潜り込む。若者や語学の先生や通訳の人たちの多くは無職、これからの仕事を見つけなければならない。ピースボートに乗船する代償として語学講座や通訳や観光コンダクターやさまざまな自主企画などをこなさなければならず、大変らしい。今日は乗客の荷物の搬出預かりをスタッフ総出で運び、肉体労働をしていた。正にワーキングプアーだ。

天候は曇り、風が強く波が高く荒れ、やっと船らしく波をかき分け進み揺れたが、テーブルの物が落ちるような揺れではない。日本の、乗客の、前途を象徴するかのような天気だった。船は時々ねじれる様にゴロゴロと悲鳴を上げ、少し不安を抱いた。ドッグ入りでもクルーの住みかは船、常に船上での仕事が待っているらしい。すでにAM放送がキャッチでき、あきらかに日本が近い。明日6時には横浜着岸。お互いに別れを惜しむ。

(船上での更新はここで終了。劣悪のネット環境とは云え無事にアップでき、衛星回線に感謝。)

4月9日早朝オセアニック号は静かに横浜ベイブリッジをくぐり、2隻のタグボートが船をコントールして、何時ものように岸壁に、いつものホンジュラスの船員がロープを投げ、埠頭で待つ作業員がロープをつかみ、太い係留ロープを手繰り寄せ作業が進む。時々話を交わした船員達とお別れだ。今までと違うといえばフォレスター4WDのフロントの専用のフックに太い係留ロープを引っ掛けて、ブワーンと鮮やかにバックしてアンカー位置にロープを置き、易々とフックに掛ける見事な作業、この点が日本なのか、早々と作業が完了。埠頭には工事作業車やクレーン車が気になる。オセアニックの煙突から氷川丸を包み込むような黒煙を一気に噴出して静かになったが、大掛かりな煙突掃除でも行うのだろうか。

無事に接岸、とにかく嵐に遭う事もなく、事故もなく、とにかく良かった。それにしても、この寒さはなんだ。厚手の物はみんなトランクに詰めてしまって、南から来た我々は寒さが身に染む。

さあ、いよいよ入国だ。が、我々はまだ上陸できない。下船は最上階の客から徐々に降りて行く。梱包された荷物が運び出され、佐川急便のトラックに積まれ税関前の集積場に運ばれる。入管手続きは船内で行われ下船許可の降りた客は船内でパスポートを受け取り、手荷物を抱えてブリッジを降りる。ここで船とはお別れ。まだまだ乗っていたいと思ってみても、お終いだ。

荷物の集積場で自分の荷物を探し出し、台車に積み税関の検査を受ける。何人かは開梱を指示され大変そうだ。ほとんどの人が簡単な質問に答えるだけで通過している。人々がごった返して、今まで船の中で穏やかになっていたが徐々に忙しく3ヶ月前、乗船前の感覚に戻って、苛立ってきているようだ。重い台車と肩に食い込む荷物に耐えながら、優雅な気分は吹っ飛び、遅々と進まぬ列に並び、宅急便の受付順を待つ。混乱の中での入国、もっとスマートに行かないのかなあ。

乗客400名と少なかったせいか、最後の我々は正午少し前、まだ満開の桜が咲いている清潔で安全で安心な最終寄港地、横浜の町にたどり着いた。(先ずは終了。一読ありがとうございました。今後少し時間を掛けて船旅の考察をまとめます。)

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