3月22日 パペーテ(タヒチ) 自由行動

   衛星回線残りわずか、出来る限り更新しますが残りは4月10日になります。

更新日 2010/03/25

船内生活その3

イースター島でチリ国の上陸は終わった。この国は動植物検疫では一番厳しいとの事である。入国に際しSAGカード(動植物検疫誓約書)を提出しなくてはならない。

*下記のものはチリ国内への持ち込みが禁じられている。「果物、野菜、植物、球根、塊茎、種子、ハーブ類、小枝、菌類、挿し木、土、切花、植物製品、木材、工芸品、農薬、肥料、動物、鳥類、蜂、蜜蜂、乳製品、卵、肉類、精液、幼虫、ワクチン等の生物製品、動物用医薬品、診察器具、抗生物質、薬用シャンプー、動物食品」読みながら「なんだ?これ」と驚きの声が上がる。これらに違反すると場合によっては最高1万8000米ドルの罰金が課せられる場合あり、との事。

入国審査時 リュックを背負っている人は「中身を見せてくれ」と言われている人も多かった。それ故 当日のツアーの弁当はサンドイッチ等中身にハムや卵やレタスではなく焼いた菓子パンと水だけだった。そして今まではイースター島で出たゴミを本国に送って処理をしていたが、自島で処理するようにとのお達しが出たそうで「イースター島の学校訪問」のツアーの参加者は前日、分科会で{どうやればゴミを少なく出来るか}と話し合っていた。

イースター島を出港して次のパペーテまで一週間ある。17日に洋上運動会が行われた。

日本各県と世界各国の人を分け 赤組、白組、青組、黄組に分かれた。我が埼玉は神奈川、四国、岡山、広島、山口、カナダ、アメリカの赤組80名位。実際に参加者は4,50名か。

Kは応援団員と綱引き、Nはムカデ競争と応援団のその他大勢組。応援団の練習はカヤオを過ぎてから5日間行われた。なんでこんなのに参加しちゃったのだろう・・・と連日の召集に少々うんざりしながら若者達の情熱に引っ張られ なんとかこなし、運動会当日午前の部は3位、しかしながら午後一番目の応援合戦で、Kはその中の応援団員としてノルマを果たしたつもり、後でDVDに写ったKを見ると唯の酔っ払い風ジジがうろうろしているだけ、しかし、なんと最高得点を獲得し、それが引き金になって最後逆転で優勝!!!

酒場「波へい」で一時間飲み放題の賞を得た。まあその晩の賑やかなこと。呑み助にはタダ酒ほど嬉しいものはないらしい。赤組の合言葉、火の鳥!!ファイヤー!!の掛け声がこだました。

、このところ、船内では紛失物が多くなってきた。何処かに置き忘れた人も居るが、ちょっと離れたすきに消えてなくなっていた人も居る。大事な写真集、眼鏡、手帳が入っていた手提げバックやカメラや上着等々。摩訶不思議。最近はちょっとの移動でも皆持ち歩くように用心している。

この旅で脚の骨折、足首の骨折で入院した人が二人(二人共手術を終えてカヤオから船に戻って来ることが出来た)。一人参加の老人が体調不良の為入院し途中帰国。お年寄りのご夫婦のご主人がが脳梗塞を起こし途中帰国。船中で転んで腕を痛めて吊っているお年寄り、イースター島への上陸の為のテンダーボートで怪我した人3人、と怪我人、病人が多いなと驚いたが何回も乗船している人の話に依ると、いつもそんなもんだと。

ブエノスアイレスでカメラをひったくられた若者女性が居たが、カヤオでは船が着岸している傍の浜で二人組に倒されポケットの中身を取られた男性、ゲートの傍200m位でピストルを突きつけられたが逃げ戻った男性、聞くに驚愕の一日でした。

イースター島を過ぎてから毎日一時間遅らしている。今日で日本時間との差は17時間、今こちら3月19日の夜10時で、日本は20日の午後3時。今日の夜24時になると又一時間遅らす。明日も又しかり。毎日一時間得している感じ。(N記)


3月22日 タヒチ・ヌイのパペーテ港から自由行動

船は前日、静かな南太平洋を風もないのに右舷方向に傾いて、燃料パイプが詰まったのではなんて噂をしながら、予定の前日21日夜間に無事接岸。

翌早朝、日の出を見て、7時過ぎ早々と船を出た。埠頭の前が中心地、忙しく車や人が行き交い高層ビルはないが、大きな街で山は緑豊かな様子。郵便局に行き、片言のフランス語で「カルテ・シルブプレ」ではがきを求め孫に出す。片側3車線もある広い道には信号はなく横断歩道のみ、脇に立つと車が一斉に止まり安心して横断することができる。手を振り振り日本人らしくお礼をしながら渡る。きっと奇妙に思われたことだろう。日本では考えられない。素晴らしいことだ。今日は仲間2人に頼りにされていた為、インフォメーションで観光の作戦を立て、フェーリーで向かいのモーレア島のさんご礁で泳ぐことにした。

切符はカードで買えばレートが良いとの噂、Visaは使えずMasterでOK。場所によってカードを変えなければならない。30分程で高速双胴船はモーレア港に着岸、あんなに晴れていた空は突然のスコールでかすみ、どれほど美しい島だか判らない。この島はバリハイの舞台になった島だ。バナナでも買って雨が止んでからのんびり行動しようかなと考えていた所、さらに仲間が2人、とうとう6人で今旅行初めての現地ドライバーによる貸切タクシー島内一周ツアーの始まり始まり。泳ぎは諦めた。車はヒュンダイのワゴン車。バナナは新鮮な青臭さと甘みの中にすっぱさが、こりこりとした感触を伴なって、おいしい。

雨に霞むものの、美しい海。穏やかな老ドライバーはゆったりとした運転で、英語で案内をしてくれる。島中の皆を知っている様子、すれ違う人々に挨拶を交わす。ビユーポイントで車は止まりシャッターを押す。(つづく)周回道路は舗装されて制限時速60km、車は少ない。リゾートホテルや海岸縁の別荘を眺め、荒れ果てた西武系リゾート地を通り過ぎ、いつしか青空に、遠く青黒い島のような波が、サンゴ礁にぶつかり砕け、白い帯がエメラルドグリーンの静かな海を縁取る。美しい海。南太平洋の火山島ではあるが珊瑚に包まれた美しい海。浜辺で珊瑚の白い死骸を集める。美しい浜だがガラスの破片もプラスチックの破片も打ち寄せられて現実の姿をさらけ出している。

チリの津波の影響は殆んど無かったそうだが、道路脇のゴミ箱がひっくり返っていたり、所々大木が倒れていて、サイクロンでの影響が大きかったらしい。

所々開墾されパイナップル畑や果物畑にはたわわに実がなり、途中ジュース工場に立ち寄る。観光コースの一部だ。リキュールを数杯頂き、良い気持ち。島民の仕事が有り、安定した収入で落ち着いた村だという。パンノキ breadfruit tree は大きな木で直径10cm程の実が生って、ドライバーが一つもいでくれた。蒸すか煮るかして食べるらしいが、レストランではなぜか金曜と日曜日にしか出ないと言う。試食できなかった。

昼過ぎ初めてのチャータータクシーの観光は終わり、運転手が安いレストランがあるよと期待していたらフェーリー乗り場にある店だった。そこでポアソンクリュ(生魚)刺身のココナツミルク和えを注文。美味いが、決して安くはない。タヒチは米ドルのレイトが悪く1600円もした。2時のフェリーでMaster ICカードが使えず、古い磁気カードで切符を買う。カードのからくりが理解できてないので心配だ。堤防下には青や赤の縞々の熱帯魚が泳いでいる、美しい島だ。無事にタヒチ本島に着き、本船に近づくと釣りをしている仲間がサヨリらしき魚をさばいて刺身にしている。コリコリして美味かった。部屋に荷物を置き、港周辺の町を散策する。


午後4時を回ってしまった。郵便局は閉まっている。急ぎマルシェに向かうが、ほとんどの店は布で覆われクローズ、みやげ物を買うにも商売気がまるで感じ取れない。おいおいピースボートの日本人がうろうろしているのに、怠け者めが。フランスの統治が悪いのか、南国の気質なのか。とは言うものの商売は中国の人が牛耳っているという。

現地から来た水先案内人の講座で、フランスの核実験場になり楽園を破壊され、現金に溺れさせ、そこで働いたタヒチの75%が癌でなくなり、今なお25%が被曝で苦しんでいる。米英では32種?の癌を認めたにもかかわらず、8種類?しかサルコジ大統領は認めていないとか、ちょっとピースボートしていますが、しかも教育者(学校の先生)達がフランス本土からやってきて、援助金の殆どが給料として本土に持っていかれ、現地には金が残らないとか、確かに独立運動はまだささやかな様子、どこも同じように先進国に食い物にされているのは同じ。

ゴーギャンに至っては、女たらしの国辱者、タヒチ辱者としての評価を受けているそうだ。まあ、芸術家に品性を求めるのは酷だが。水先案内人ガビさんはタヒチのフランスに頼らない独自の生き方を進めているNGOの代表者。昔ながらの農業をして自然の楽園にふさわしい本来の生き方を進める原住民タヒチアンだ。

夕方、接岸地点はルロットと呼ばれる屋台バンが集まる広場、中華、ピザ、魚色々な屋台レストランが並ぶがアルコールは売っていない、ここでも生魚料理を一皿、二人で食べ、タヒチを堪能した。ビールといえばヒナノビールHINANO、フランス語ではHは発音しないからどう呼ぶかなと思ったけど、やはりヒナノでした。スーパーで買い求めごっくん。タヒチでは数人が離船し別れを惜しみ、船はいよいよ最終寄港地フィジーに向かって南太平洋を西進した。(K記)

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